黒木夫妻は昭和31年(1956年)にお見合い結婚しました。
畑作での生活は収入が少なく、苦しかったものの、明るくおしゃべり好きな靖子さんのおかげで小さな家庭には笑顔が絶えなかったといいます。
やがて3人の子どもに恵まれた夫婦は、乳製品の需要が高まった時代の流れと共に畑作から酪農へと切り替えます。
しかし、家族で営む酪農はかなりの重労働で、朝2時に起きての掃除、餌やり、乳搾り、飼料づくり…
365日、休みはありませんでした。
旅行に行く暇などない働き詰めの生活は20年続きました。
そんな中でも互いを支え合いながら営んできた結果、乳牛60頭を養うまでになり、子どもたちも立派に成長して巣立っていきました。
結婚30年目を迎え、やっと夫婦の時間を持つことが出来た黒木夫妻の夢は「日本一周旅行」。
いつか仕事をやめたら全国各地の名所を回ろうと、何年も前から2人でこつこつとお金を積み立てていました。
これは長年愚痴ひとつこぼさず働いてきてくれた妻に対する、夫の約束でもあったのです。
しかし、予想していなかった悲劇が…
ある日突然、靖子さんは目の不調を訴えます。
敏幸さんは妻をすぐに眼科へ連れていきましたが、原因は不明。
しかし、それからわずか1週間後、靖子さんの目は完全に見えなくなってしまったのです。
緊急入院した宮崎市内の病院で、糖尿病の合併症という診断を受けました。
靖子さんは当時52歳。
それまで活発な毎日を送ってきた靖子さんにとって失明のショックは大きく、口数も、笑顔を見せることも減ってしまいました。
妻の失明は同時に、夫婦2人で築いてきた酪農を手放さなければならないことを意味していました。
乳牛60頭を敏幸さん1人で世話するのは困難でした。
働き詰めで体を顧みてやる余裕もなかった妻の失明、酪農の閉鎖…
そして旅行の約束も果たせなくなってしまった敏幸さんは、不甲斐ない気持ちでいっぱいだったそうです。
敏幸さんは妻を出来る限り元気づけようとしましたが、靖子さんは、退院した後もすっかり家に閉じこもるようになってしまいました。
生きる気力まで失ってしまったような状態で、暗闇の中、落ち込み、退屈そうに暮らす妻。
敏幸さんは、励まし方が分からずに悩んでいました。
靖子さんの退院から翌年の春、敏幸さんは、庭のみかんの土止めのために植えたシバザクラに人が集まってくることに気がつきました。
当時はまだ珍しかったシバザクラの鮮やかな色に惹かれて、人が家の前で立ち止まるようになっていたのです。
その様子を見てあるアイディアを思いついた敏幸さんは、本格的に庭作りに取り組むことを決心しました。
人を呼ぶシバザクラをもっと増やそうと考えたのです。
裏山を切り開き、地面を盛り上げ、土台を整えるだけでも2年を費やしました。
夏には雑草を抜き、秋は広大な敷地を肥料で覆う。
たった一人で、少しずつ地道にシバザクラを植え、増やしていきました。
妻を外に連れ出せないのであれば、人を家に呼べばいい。
庭をシバザクラで一杯にして靖子さんの話し相手を沢山集めるために、敏幸さんは毎日庭仕事に励みました。
それから10年が経ち色鮮やかな「花の絨毯」が見れるようになった黒木邸。
いつの間にか噂を聞きつけた人で賑わうようになり、そこには見物客と楽しそうに話をする靖子さんの姿もありました。
敏幸さんがたった1人で作り上げた庭のおかげで、靖子さんは再び笑顔を取り戻したのです。
それから更に10年、現在シバザクラは約600坪の庭一面に広がっています。
毎年シバザクラの季節になると、ピンクの花のじゅうたんを一目見ようと県内外から多くの観光客が訪れ、週末にはその数3000~5000人にも及ぶそうです。
庭園には敏幸さんがつくった遊歩道、手すり、ベンチなどが設置され、靖子さんも毎朝ここを散歩しています。
今でも毎日欠かさず庭に出るという敏幸さんの今の生き甲斐は、人が花を見て喜んでくれることだそうです。
この広い敷地をたった1人で造り上げたなんて!
辛い時期を共に乗り越えてきた妻への思いが詰まった、見渡す限りの美しいピンク色をした芝桜。
そこに映し出される夫婦愛に、ただただ涙してしまいます。
妻を喜ばせたい一心で、何年もかけてこれだけの事ができるなんて…
この美しい芝桜と優しいご夫妻に会いに、いつか一度は訪れてみたいですね。
【引用元】